西村陽一郎 作品展
青い花
2021.12.22[水]-2022.2.1[火]開催
【第6回】西村陽一郎さん
【略歴】
1967年東京生まれ。
美学校で写真を学び、撮影助手を経て1990年に独立。フリーランスの写真家として活動を始める。
カメラを使わない写真技法であるフォトグラムやスキャングラムを中心に、植物や昆虫、鳥の羽、水、ヌードなどをモチーフとした作品を発表している。
期待される若手写真家20人展、ヤング・ポートフォリオ展、’99 EPSON Color Imaging CONTEST、PHILIP MORRIS ART AWARD 2000、TPCCチャレンジ、2003京展などに入選。
【近年の個展】
■2021年
「みなぞこ」ととら堂/逗子(11.13-11.28)
「流転」Gallery Nayuta/銀座(9.10-9.25)
「貝殻」zushi art gallery/逗子(5.1-6.13)
■2020年
「光る夢」 Gallery Cafe 3/高円寺(2.11-2.16)
「光る玉」Gallery Nayuta/銀座(2.3-2.15)
■2019年
「道端の花 烏野豌豆と立浪草」zushi art gallery/逗子(4.12-4.29)
「The Art of Photography by Yoichiro Nishimura」Fabrik Gallery/香港(3.9-4.11)
■2018年
「Paris」みんなのギャラリー/上野(10.11-10.28)
「踊ル人」zushi art gallery/逗子(6.6-6.11)
「青い花」モンミュゼ沼津(沼津市庄司美術館/沼津(4.28-5.20)
バラとスイカズラ
チューリップ
フウセンカズラ
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365カフェアートギャラリー、第6回目は写真家の登場です。初めて西村さんの写真を拝見したのは、逗子の小さなギャラリーでした。貝殻をモチーフにした作品は、画廊の白い壁の上で、青く光って見えました。重なり合う貝を見ていると、まるで海の底にいて静かに海の物語を聞いているかのような、そんな不思議な気持ちになりました。今回は花をモチーフにした作品を展示します。スキャングラムというカメラを使わずに撮る技法で作品を制作。その妖艶な作品世界が存分にお楽しみいただけるのではないかと思います。
(インタビュアー 株式会社サンポスト 前田 敏之)
■自然の中で虫や植物に囲まれて生きる幸せ
――まず、スキャングラムについて教えてください。
〈西村〉 カメラを使わず、スキャナーで被写体を直接スキャンして画像を得る手法です。私は主に透過光モードを用いています。
――ひとくちに写真といっても、それこそ報道写真からコマーシャル、ファッションから物撮り、あるいはポートレートや記念写真、プライベートフォトまで多岐にわたります。西村さんにとって写真とは何でしょう。
〈西村〉 光の描いた画(フォトグラフ)です。中でもカメラを使わずに直接印画紙に焼き付けるフォトグラムという方法は、シンプルでとても魅力的だと思います。
――携帯電話にカメラ機能が内蔵されている現在、写真を撮ることは日常的なことになっているともいえます。気軽に撮ってSNSなどにアップし、友達と共有できます。しかし簡単にできるからこそ、逆に抜け落ちてしまうものもたくさんあるような気がします。昔、写真は貴重なものでした。西村さんがスキャングラムを始めるに至るまでの歴史を振り返ってみたいと思います。お生まれ、そして育ったのはどちらなのでしょうか。
〈西村〉 東京都西東京市(当時は田無市)の田無駅前にある佐々病院で生まれました。1967年1月5日です。誕生の知らせを聞いて父と姉たちが駆けつけた時には、どうやら病院の新生児室がとても混んでいて定員オーバーだったらしく、物置のような部屋に入れられていたそうです(笑)。
――第二次ベビーブームが1971年ですから、その少し前ですね。
〈西村〉 家は保谷市柳沢5丁目にありました。私には記憶がありませんが、あたりは畑に囲まれたのんびりした所で、住んでいたのは古くて床が傾いた木造アパート、実際に置いたボールが転がっていくほどだったそうです。その後、私が2歳くらいの時に、千葉県の船橋市習志野台に新しくできた公務員住宅に引っ越しました。私が生まれて家族が5人になり、アパートが手狭になったせいだと思います。父は東京大学応用微生物研究所に勤める国家公務員で、主に癌に効く抗生物質の研究をしていました。
――個人的なことですが、私も船橋市前原町に住んでいました。当時は田舎でしたね(笑)。
〈西村〉 はい。周囲は田んぼや畑、雑木林だらけでしたが、家の周りでは常に道路工事や宅地造成が行われていました。通学路の脇には広い鶏舎があり、そこを探検しがてら敷地に立っていた大きな姫林檎の樹に登って実を食べたりしました。実を食べたといえば、公園や野山に生えていたイチジクの実はご馳走で、子どもたちは猿の群れのように実がなっている木々を渡り歩いては食べ散らかしていました。その他、桑の実や山ぶどう、山芋なども採りました。家から少し行ったところにある田圃や用水路、ため池にはザリガニやカエル、ヘビやトンボ類がたくさんいて、雑木林や草地ではカブトムシやクワガタ、カミキリムシ、バッタ、コオロギをはじめとする昆虫類をたくさん獲ることができました。美しいハナカミキリ類たちがウツギの花に群れ集まっている楽園のような光景を、父の肩車の上で見た時の感動は、つい昨日のことのように今でも鮮やかに覚えています。
――いわゆる里山の豊かな自然の中で育ったのですね。
〈西村〉 朝露に濡れた草はらのそこかしこにイトトンボが音もなく飛び回っている様子も忘れられません。自転車で少し遠出をすれば乳牛を飼っている牧場もあり、たびたび父とサイクリングに行きました。知らず知らず虫好きになっていた私にとって、取り巻く環境はなかなか素敵でした。ただ、あいにく私は小児喘息持ちで、毎週のように発作を起こしては床につくことが珍しくなく、みんなが学校に行っている間ひとりさみしく孤独を味わうことが多くありました。13歳までの少年時代はそこで過ごしました。小児喘息が完治したのは15歳頃だったと思います。
■多摩動物公園の昆虫愛好会に入会
――最初に写真を撮ったのはいつか記憶にありますか?
〈西村〉 おそらく5~6歳頃、船橋の郷土資料館に展示されていた機関車D51の前で、父と母を撮ったのを覚えています。カメラはオリンパスペンEEで、フィルムはネガカラーでした。
――写真に興味を持たれたのはいつ頃でしょうか。
〈西村〉 15歳くらいの時です。多摩動物公園の昆虫愛好会の野外観察会で親しくなった方が写真家だったこともあります。
――昆虫少年だったのですね。
〈西村〉 はい、自然が豊富に残った環境で育ったせいか、気がついたら昆虫少年でした。夏休みになると近所の友達をひき連れて、早朝4時起きでカブトムシやクワガタの採集に行っていました。ちょっと高いところを速いスピードで飛び回る、青色と黄緑色のギンヤンマを生まれて初めて網に入れることができた日は、それまでで最良の日に感じました。獲ってきた虫たちは飼育ケースに入れてベランダで飼っていました。13歳の頃に、津田沼のもう少し広い公務員住宅に引っ越しをしました。津田沼も今とは違って当時は畑が多く、通っていた中学校も広い畑の中にありました。その時々の野菜の匂いや肥料(肥溜めもありました)の匂いが漂う農道を通り、学校に通っていました。春は雲雀たちがあちこちで高鳴きをし、大変のどかでした。海までもそれほど遠くはなく、谷津干潟という野鳥たちがよく集まる大きな干潟には時々自転車で出かけ、ハゼ釣りをしました。冬のハゼは大きくて、母の揚げてくれた天ぷらや唐揚げはご馳走でした。
――私も津田沼はよく知っています。懐かしい!(笑)。谷津干潟にはよく歩いて行きました。沿岸が埋め立てられる前で、海が今よりずっと近かったんです。
〈西村〉 ところが私は中学1年の3学期から、不登校になりました。当時は「登校拒否」と呼ばれていました。朝起きられず、学校に行こうとすると下痢や発熱、頭痛が起こり、欠席するようになりました。はっきりとした理由は今でも分かりませんが、当時はずいぶん苦しみました。両親も大変だったと思います。カウンセラーのところにも連れて行かれ、自律神経失調症と診断されました。朝方眠って昼過ぎに起きるような生活がしばらく続き、かなり辛い思いをしました。
――学校という同年代の子どもだけで構成された環境がいけないのではないかと思います。校舎がコンクリートで四角いのも監獄みたいですから。自由な心を持つ繊細な子どもには行けという方が無理です。私も小学生の頃はよく休んでいました。ただ精神的には図太かったので、集団登校で下級生を学校まで送って行って、自分だけ校門前でUターンして家に戻って来ていましたが……。確かに学校がしんどいのはよくわかります。
〈西村〉 中学では保健の先生が親切に面倒を見てくれ、時々は保健室に行くこともありました。そのおかげでなんとか卒業し、高校はその保健の先生が紹介してくれた、登校拒否児に理解があるという高校の先生が勤める正則高等学校という男子校(今は共学)に進学しました。そこでは生物部に在籍し、部で親しくなった同級生の友達の家に遊びに行った時、近所の公園でツマキチョウという可愛らしいシロチョウの仲間を初めて採集した時のことは今でもよく覚えています。
――高校で生物部! なんと私も生物部でした。青カビの研究をしていました。西村さんはいかがでしたか?
〈西村〉 実は、学校自体は2〜3ヵ月で行けなくなり、一年休学したもののやはりダメで結局中退しました。その頃、オリンパスが主催の昆虫写真家・栗林慧さんのトークショーに行ったのは良い体験でした。確か会場は虎ノ門あたりのホールで、母が連れて行ってくれました。両親のどちらかが新聞などで知り、虫好きの私のために申し込んでくれたのだと思います。そこでは様々な昆虫たちが飛翔している一瞬の姿を自作の高速ストロボでクローズアップ写真にとらえた栗林さんの写真世界に目を見張りました。もちろんトークショーや写真も面白かったのですが、帰るときに渡されたオリンパスのカメラ機材の立派なカタログ類が大変刺激的だったのを覚えています。写真と機材の関係などを少し知ることができ、わくわくしました。
――カメラ機材のカタログを見ていると夢が膨らみますね。
〈西村〉 多摩動物公園の昆虫愛好会に入会したのもその頃だったと思います。小学生の頃に買ってもらった『カブトムシ』という本が好きで、その著者、荻野昭さんが勤める多摩動物公園の昆虫館は私の憧れの場所でした。館長の矢島稔さんが書いた『昆虫おもしろブック』も愛読書でした。昆虫愛好会には『インセクタリウム』という月刊誌があり、内容はあまりにも専門的すぎて私には難しいものでしたが、送られてくるのを楽しみにしていました。終わりの方のページのお知らせコーナーに載っている、年に数回ある講演会や野外観察会のイベント情報は必ず目を通し、時々参加するようになりました。当時は自律神経失調症で家を出ると気分が悪くなり吐いてしまったりして、ほとんど外出ができなかった自分としては大変思い切ったことでした。そこで堀田典男さんという八王子で写真館を経営されている写真家と知り合いました。
――昆虫写真家の方なのでしょうか。
〈西村〉 普段は成人式や七五三の記念写真を撮ったり、地域の学校の遠足などの撮影をしているようでした。蝶と山が好きで、野山に採集に行ったり、自宅で飼育して標本を作ったりするのを趣味にしていました。初めて出会ったのは、私が15歳くらいの頃、八王子の片倉付近で行われた昆虫愛好会の冬の観察会です。その会の講師は矢島稔さんと荻野昭さんで、本の中でしか知らなかった方々と一緒に歩くだけでとても楽しかったのを覚えています。何を質問したのかは覚えていませんが、お二人とも優しく丁寧に答えてくれました。お昼の休憩時間は、ほとんどの参加者が家族や友達同士のため、それぞれが日当たりの良い場所に陣取って仲良く固まって昼食をとっていたのですが、単身で参加していた私は早々におにぎりを食べ終わってしまい、雑木林の中で蝶の卵を探していました。ゼフィルスと呼ばれるミドリシジミ類の卵が、この季節コナラなどの細い枝先などに見つかるというのを本で知っていたからです。ただそう簡単には見つからず、木々の間を、枝先を覗き込むようにしてウロウロしていると、そこにおじさんがどこからともなく現れて、気さくに声をかけてくれました。そのおじさんが堀田さんでした。彼も観察会にひとりで参加していて、手持ち無沙汰だったのかもしれません。ゼフィルスの話から始め、オオムラサキなど他の色々な蝶の話をしながら、二人で明るい雑木林の木々の間を肩を並べて歩きました。別れ際には堀田さんが自分で撮ったというカードサイズにきちんとパウチされた羽化したてのオオムラサキ(タテハチョウの仲間で日本の国蝶)のオスの写真をさりげなく渡してくれ、再会も約束してくれました。その写真は今でも大切に手元にあります。堀田さんは私より20歳ほど上でしたが、「友達になろう」と言ってくれたのも嬉しかったです。その後、堀田さんは約束通り大菩薩峠や入笠山など、何度も私を採集行に誘ってくれました。
――心温まるよい思い出ですね。私もミドリシジミは好きですが卵までは思いが至りませんでした。小学生の頃、父親にねだって、群馬県の榛名山にウラギンヒョウモンの採集に行ったのを覚えています。
〈西村〉 ある時、私が熱を出してしまい、採集に行けないばかりか一晩か二晩、おうちでご厄介になったこともありました。奥様とは山で出会ったそうで、ご夫婦とも親切にしてくださいました。あとで聞いた本人の話では、堀田さんは中学高校と大変な不良少年で、その後も半分ヤクザの道に足を突っ込んでいたのですが、写真家だった恩人に救われて足を洗ったそうです。そして自分も写真家になったとのことでした。今となっては恩人がどんな方だったのか、どういう経緯があったのか、ちゃんとお聞きしなかったのが残念です。
――出会いというのは流れですから……学校という組織の中で、無理に友達を作れと言われても、そもそも無理な話ですね。
■最初の仕事は昆虫集めと飼育
〈西村〉 17歳のとき、サンリオのビデオ事業部製作の『風のファンタジー オオムラサキの詩』という映画で、制作補として働きました。場所は山梨県の長坂町(現北杜市)です。深沢温泉という鉱泉の一軒宿の敷地の外れに、この撮影のためにサンリオが建てたプレハブの簡易スタジオと宿舎があり、そこに住み込みで撮影をしました。元々は堀田さんがその映画のスチール写真や昆虫に関するアドバイザーをしていた関係で、私に回ってきた仕事です。その前年、16歳の時には堀田さんに採集行のついでにスタジオに連れて行ってもらい、映画の撮影を見学させてもらったこともありました。ところが、堀田さんがその次の年の正月に、山で不慮の事故に合い亡くなってしまいました。私にとってはかけがえのない人でしたし、身の回りで人が亡くなる体験が初めてだったこともあり、号泣し、しばらくは目の前が真っ暗でした。その少し後、この映画の原作者でプロデューサーでもある高橋健さんから電話があり、堀田さんがやっていた仕事を補うためのスタッフとして参加しないかとお話をいただき、やらせて頂くことにしました。始めるにあたってサンリオの社長の辻信太郎さんに紹介され、社長室で「頑張ってください」とにこやかに握手してもらったのを覚えています。社長と呼ばれる人に会ったのはこの時が初めてでした。
――具体的にはどんな仕事だったのですか。
〈西村〉 私の仕事は主に昆虫集めと飼育でした。シナリオに沿って役者たちをその時々のシーンで確保し撮影に提供しなければならないので、大変な仕事でした。自分なりには頑張ったつもりでも、社会経験がほとんど無く未熟だった17歳の私は、スタッフの方々に迷惑をかけてしまうこともしばしばあり、そんな時は硬いげんこつを頭に押し当てられることも何度かありました。しかし演出家、撮影技師、照明技師など、その道のプロの方々と一緒に生活しながら撮影に関わったことは、私にとって大変貴重な体験となりました。おにぎりの握り方もそこで覚えました(タバコも覚えましたが25歳でやめました)。その映画は完成の年に出品された動物愛護映画コンクールで、最高賞に当たる内閣総理大臣賞を受賞しました。撮影拠点としていたプレハブ小屋は、その後昆虫写真家の海野和男さんがしばらく使われていたという話を聞きました。
■映画の撮影で出会った助監督に勧められて美学校に
――その後もずっと昆虫に?
〈西村〉 映画の撮影に関わる前から確かに昆虫が好きで身近な蝶やセミなどの写真を撮っていましたし、栗林さんや海野さんなどの昆虫写真家が撮った写真を見るのも好きでした。山岳会に入っていた上の姉(私には二人姉がいて、それぞれ9つと7つ歳が離れています)の影響で、彼女が毎月買っていた山の雑誌『山と渓谷』に載っている様々な表情の山岳写真を見るのも楽しみでした。「リンホフスーパーテヒニカ」とか「ホースマンVH」といった、聞きなれない未だ見ぬカメラの名前を覚えたのもその雑誌でした。いわゆるネイチャー写真全般が好きでした。本では小学生の頃は椋鳩十、その後ムツゴロウさんとして有名な畑正憲や、ドクトルマンボウこと北杜夫にはまってそれぞれ何十冊も読みました。ムツゴロウさんには「動物王国で働きたい」と手紙を書き、奥様から丁寧なお断りのお返事をいただいたこともありました(今でも手元にあります)。北杜夫さんは偶然深沢温泉でお見かけする機会があり、感動しました。ある日テレビのロケで、蝶好きな北さんがオオムラサキがたくさん生息している深沢温泉を訪ねてきたのです。私は他のスタッフと撮影中だったためお話はできませんでしたが、本人を近くで見られただけでも興奮しました。海野和男さんも時々深沢温泉に泊まりがけで撮影に来ていて、お見かけすることがありました。『オオムラサキの詩』のスタッフの方々には、撮影の仕事以外でも家に招いていただいたり映画に誘ってもらったりと本当に良く可愛がってもらったのですが、フランスのヌーベルバーグやドキュメンタリー映画や実験映画など、それまで自分が知らなかった映画の世界を知ったのも彼らのおかげでした。
――ひとつの入口から、どんどん世界は開けてゆきますね。
〈西村〉 撮影をしているちょうどその年に宮崎駿の『風の谷のナウシカ』が封切られ、撮影の合間に助監督に誘われて渋谷の映画館で観てとても感動したのを覚えています(今でもテレビで放映されると観てしまいます)。その後オオムラサキの撮影に戻ってもすっかり影響を受けてしまっていて、さっそくシナリオにあった幼虫とカマキリの遭遇のシーンで、巨神兵が丘の上からぬっと顔を出す場面を真似たカット割りを監督に提案した程でした(笑)。私は2年越しでオオムラサキの撮影に関わったのですが、その間にスタッフが少し入れ替わりました。後半にやってきて知り合った助監督は、自分でも8mmや16mmで映画を撮っていて、写真にも詳しい方でした。私がモノクロ写真を勉強したいと知って、美学校を紹介してくれたのもこの助監督でした。中野のテルプシコールで上映会をやったり、詩人の鈴木志郎康さんとドキュメンタリー映画を作ったりもしていました。彼の柔らかく、静かな中にも不思議な緊張感のある雰囲気や作風に惹かれました。彼の家の本棚には私が見たこともないような種類の本がたくさん並んでいて、つげ義春の『ねじ式』『赤い花』などの漫画やミロの画集やボブディランの詩集、藤原新也の『全東洋街道』など、そこで初めて読ませてもらいました。ブレヒトなどの演劇系やドラッグなどカウンターカルチャー系の本もあり刺激的でした。
――つげ義春は、私も“つげ信者”といわれるくらい好きです。今でも「つげ義春」という文字を見ただけで震えが来ます(笑)。藤原新也の『全東洋街道』は画期的な企画でした。暗いトーンが印象的です。
〈西村〉中でも特に私が衝撃を受けたのは、中平卓馬と森山大道の写真でした。二人の写真に、ゾクゾクし、私の写真観、世界観は大きく揺るがされました。中平卓馬の『来たるべき言葉のために』という写真集は、当時すでに絶版になっていたため、神保町の源喜堂で注文して、数ヵ月後に手に入れました。今でも森山大道の『光と影』と共に私の宝物です。中平さんは2015年に亡くなっていますが生前に何度かお会いする機会がありました。2011年の個展「パトス」に足を運んで下さった際は、感動のあまり言葉が出ませんでした。森山さんには最近時々お目にかかる機会があるのですが、自分の写真に心血を注いでいるところや、偉ぶらず人に親切なところが素敵です。他にも好きな写真家はたくさんいますが、このお二人だけは特別です。私が写真表現の奥深さにより気づき、惹かれるようになったきっかけのひとつだったと思います。
――美学校といえば、赤瀬川原平や南伸坊など著名な作家を輩出しています。写真の方はどなたが先生だったのでしょうか。
〈西村〉 成田秀彦先生です。成田先生にはモノクロ写真の基礎を教わりました。まず暗室の第1回目の授業で、光と感光材料の関係を知る、ということでフォトグラムをやりました。フォトグラムというのはカメラを使わない写真技法で、やり方はとてもシンプルです。まず印画紙(感光性のある紙)の上に被写体となる物体を配置し、上から光を当てます。その後物体を避けてから、印画紙を現像液などの処理液に浸せば出来上がりです。物体が載っていた所は影になるので白いままですが、その外側の光が作用したところは色が黒く変化するので、その差によって絵が出現します。海などで日焼けすると、水着の跡がついてしまうのと同じ仕組みです。光が当たって明るいところが黒く、影の部分が白いので、明暗が逆転したモノクロのネガ画像になるのも面白いところです。
――スキャングラムに通じるものですね。
〈西村〉 はい、そうですね。私はこの暗室第1回目のフォトグラムにすっかり心を奪われてしまいました。現像液の暗がりの中に被写体とした手の形が白く浮かび上がってきた瞬間は、今でも忘れることができません。
■「過去を引きずっている」と指摘され
――フォトグラムは1830年代にタルボットが制作。その後もマン・レイや、モホリ・ナギが多用しています。私も、子どもの頃、日光写真で遊んだことがあります。美学校で、他にはどんなことを学ばれたのでしょう。
〈西村〉 カメラの扱い方からフィルム現像の方法、ベタ焼きや引き伸ばしプリントの方法など、モノクロ写真の基本的な作法も学びました。ただ私が美学校に入ったのは映画の撮影が終わったタイミングだったこともあり学期途中の6月で、先輩たちはもちろん4月から学んでいる他の同級生達に比べても、手ぶれやピンボケ、露出オーバーやアンダー、現像ムラなどを連発していた私の写真は恥ずかしいほど下手くそで、彼らの写真が眩しく見えたのを覚えています。自分なりに真面目にやっていたのですが、なかなか思うようにはいきませんでした。
――現代の、なんでもよく写るデジカメ世代にはわからないことですね。
〈西村〉 成田先生のネガを初めて見たときは感動しました。おそらく最初の頃のプリントの授業でのことだったかと思いますが、引き伸ばし機に先生が自分のネガをセットし、イーゼルの上に画像を投影したのを見た瞬間、とても驚きました。自分が撮った写真のネガとは全く異次元と言ってもいいほど豊かな階調に溢れていて、モノクロなのに色彩豊かに感じました。不思議とどんな絵柄だったのか忘れてしまいましたが、今でもあの時の美しい絵画的(?)なネガ画像の印象は心に残っています。先生には「陽一郎、その程度しかやらないんだったら写真なんかやめてしまった方がマシよ」と言うようなことも何回も言われました。写真に取り組む姿勢が中途半端だった私のお尻を叩いてくださったのだと思います。途中、体調を崩して学校に行けない時期が数ヵ月あったり、学期中にも関わらず半年近く旅に出て休んでしまったりしたこともあって、結局私がプリントに関して何とか普通にできるようになったかな、と思えるようになったのは、美学校写真工房に在籍して3年目に入ってからでした。
――何事も時間はかかります。短期間で成果を出さないといけない現代社会の仕組みというか評価システムは、特に多くの芸術的素養を奪う気がします。美学校ではプリントを中心に学ばれたのでしょうか。
〈西村〉 はい、そうです。とは言っても細かいことはほとんど教わりませんでした。一年生の一学期にひと通りモノクロ写真のやり方を学んだ後は、必ず自宅に暗室を作らなければならない決まりでしたので、美学校に入り、ひとり暮らしを始めた西武柳沢(西東京市)の私の部屋(木造平屋風呂なしトイレ共同)は、遮光カーテンをうまく組み合わせて暗くできるようにし、週に2回は即席の暗室にしました。そこで暗室作業をし、作ったネガフィルムとベタ焼き、プリントを週に一回授業日に持ち寄り、先生に見てもらっていました。ただ、基本的な黒の濃度や色調、コントラストなどについての指導はありましたが、絵柄や構図、テーマなどについてはほとんど言われることはありませんでした。そんな中、初めの頃、私は逆光気味の写真を多く好んで撮っていたようで、自分では良くできたかなと思っていたプリントを「過去を引きずっている」と先生に注意されたのは覚えています。
――すごい指摘ですね。しかし、そもそも写真は過去ですし、その裏にどんな深い意味があるのでしょうか。
〈西村〉 靖国神社の境内で、木立の間から射す光の中に白い鳩が群れている絵柄でした。もしかしたら、先生はいわゆる雰囲気の良い、綺麗で多くの人が好みそうな写真ばかり撮るな、と言いたかったのかもしれません。同級生やOBの先輩になかなか厳しい感想を言われたこともありました。私の「下から見上げた木の若葉が光に透けてみずみずしく輝いているような写真」を見て「カレンダーの写真のようだね」と言われたり、「レトロな外車の一部分を、アングルを傾けて切り取ったおしゃれ気味な写真(?)」を「これは西村さんの最高傑作じゃないですか!?」と皮肉たっぷりに笑われたり。その時はムッとし、心を少し傷つけられましたが、自分の写真を客観的に見てもらえる場は貴重だったと思います。友達や先輩方とは学校の授業日以外もよく一緒に遊びました。授業後、神保町で飲んだ流れでまた人の家に泊まりに行き、朝方まで音楽を聴いたり画集を見たり、話をしたりしていて、それが2泊になることも珍しくありませんでした。ダリ、エルンスト、タンギー等々、ダダやシュールレアリスムの作家たちのことを知ったのも先輩方との2次会、3次会でしたし、初めてジョン・ケージやエリック・サティを聞き、レミーマルタンを舐めたのもそういった機会でした。舞踏にも連れて行ってくれて、「舞踏」という言葉すら知らなかった私は、田中泯の踊りをいきなり地下の穴蔵のように真っ暗なスペースで体験し、びっくりしたのをよく覚えています。当時は美学校に通いながら撮影助手や照明助手をして暮らしていましたが、仕事のないときは学校以外でもとにかくよく仲間で集まり、よく遊んでもらいました。
■写真の制作を通じて「命」を見つめる
――当時、フィルムや印画紙はどのようなものを使っていたのでしょう。トライXが高くて、大事に使った覚えがあります。印画紙は便利なRCペーパーなどもあったかと思いますが。
〈西村〉 まず1年生は皆ネオパンSSを使い、2年生になるとトライXでした。ただ私は下手だったせいか2年生になってもトライXを使うお許しが先生から貰えず、しばらくはSSのままでした。確かに比較するとSSの方が値段が安いし、感度が低い分手ブレにも気をつけるので練習になるのですが、トライXを使っている同級生や先輩方の写真が綺麗に見えたので、羨ましく思えました。私がトライXを使うようになったのは2年生の後半からで、間もなくして新しく発売されたT-MAXが常用フィルムになりました。印画紙は先生の方針で、みな三菱製紙の月光のVを使っていました。薄手のバライタ紙です。号数タイプなので、2号の他に、ネガによっては3号や4号を買うこともありました。家でプリントしたものは水洗が終わったものを乾燥して学校に持って行き、またドライウエル(水滴防止剤)に浸してからフェロタイプ乾燥をして仕上げました。木曜夜にプリントしたものは濡れたままビニール袋に入れて金曜日の授業に持って行くこともありました。それでも何回かは別な印画紙を買って(オリエンタルのイーグルやギルミノ・カラードペーパーなど)ドキドキしながらプリントしたこともありました。RCペーパーはほとんど使ったことがありませんでした。成田先生に、フィルムや印画紙は「長く続けていくのだから高いものは常用せず、普段使うものは一番安いもので十分」だということをよく言われたので、今でも私はあまり材料にはこだわらない方だと思います。
――当時の現像液はD-76ですか?
〈西村〉 初めは市販のD—76でした。三年目以降は、天秤秤を使い自分で調合した現像液を使いました。D—76から始まり、PQ-FGFというフェニドンを主薬に使ったものに落ち着きました。フェニドンは少量でも大きく効果が変わるので、慎重に調合していました。
――ちなみに引き伸ばし機はいかがですか?
〈西村〉 ラッキーの90MSです。フォコマートを新しく購入された美学校写真工房のOBが古いものを手放すというので、譲って頂きました。3000円でした。レンズはニコンの50mmを新品で買って、その後も長く使いました。現在自宅の暗室にあるものは、LPL7451(4×5以下)と、ベセラー810(8×10以下)、レンズはニコンとローデンストックです。四谷の暗室にはラッキー90M-Dと70M-R、450M-Dがあり、ワークショプなどで使用しています。
――美学校で4年間学ばれ、3年のときに突然写真に対して強い気持ちが働いたとのこと。そのときの様子を教えてください。
〈西村〉 3年目に何があったかは思い出せないのですが、急に写真が写るようになったという手応えがありました。撮っても撮っても写真になる、とか、写って写ってしようがない、とか、シャッターを押すたび写真が生まれてくる、という感じで(笑)、とても気持ちが大きくなりました(あくまで自分の中でのことです!)。それまでが思うようにいかず、写真に悩んでいた、ということかもしれません。
――「写ってしようがない」という感じを味わってみたいです(笑)。そうなるには、かなり撮らないといけないのでしょうね。
〈西村〉 4年目には友達と表参道で写真の路上展を始めました。毎週天気の良い土日にはユニオンチャーチの前に黒いシーツを敷き、その上に額装した小ぶりな写真を並べました。値段はつけてはいませんでしたが、気に入ってくれた人にはその人に値段をつけてもらって販売もしました。買ってくれたのは、ほとんどが外国のかたでした。1000円から3000が多く、時には500円や3万円がついたこともありました。2年間で50点ほど買ってもらいました。
――最初の頃は、以前拝見したヨーロッパでの写真のように、ストリートスナップやポートレートだったのではないかと思います。それが、より抽象的な写真になっていったのには、なにかきっかけがあったのでしょうか。
〈西村〉 以前見て頂いた作品集ではストリートスナップやポートレートを初期作品としてお話したかもしれないのですが、実は同時期にフォトグラムもやっていて、その中には抽象的な作品もありました。水を被写体として選んだのは直感的で、特に意識的に抽象的なものを求めていたわけではありませんでした。モノクロのフォトグラムは、色が省かれた陰影によるネガ画像になるため、それだけでも抽象的なものですが、たとえば水のように透明に近い被写体は、物質の性質上抽象度が増してしまうのだと思います。より抽象的なものになっていったというよりも、写真を通してより高い抽象性を持って現れた、ということなのかもしれません。発表や撮影の機会は減っていますが、スナップやポートレートは今でも撮り続けています。
――2005年個展での水のフォトグラムは、まさに抽象画のようです。その時の作品を森山大道さんが買ってくださったそうですね。
〈西村〉「水のフォトグラム」は、新宿紀伊国屋書店の裏手にあった「8(ユイット)」というカフェに併設されたギャラリーで展示しました。美術書やアンティークがさり気なく置かれた隠れ家のような店でした。そのカフェには写真家の常連も多く、その中には森山大道さんや荒木経惟さん、橋口譲二さんもいらっしゃいました。森山大道さんが作品を買ってくださったという知らせをギャラリーからもらったときは、本当に飛び上がって驚きました。
――森山さんは今なお若い人にも人気ですね。森山さんとはずっと懇意にされているのでしょうか。
〈西村〉 初めてお会いしたのは、翌年の個展「薄い羽」のときです。やはり「8(ユイット)」でした。それ以降度々個展でお目にかかれる機会がありました。ありがたいことに時々は作品を購入してくださって、これまでに10点ほどコレクションして頂いています。
――「薄い羽」はどのような作品なのでしょうか。
〈西村〉 昆虫の羽をモチーフにした写真です。実物の昆虫の羽を引き伸ばし機にセットして印画紙に拡大ネガを作り、それをさらに別な印画紙に密着プリントすることで写真にしました。きっかけになったのは、自宅の部屋の隅で、何かわからない虫の薄い羽を一枚拾ったことでした。調べてみるとウスバカゲロウの羽だというのが分かったのですが、それを写真にして大きく引き伸ばしてみたら支脈の中に毛のようなものが生えている様子が見られ、感動しました。これをもとに他のトンボの羽を使ったり、ソラリゼーションというプリント上での効果をかけたりして、いくつかのバリエーションを作りシリーズにしました。(http://yoichironishimura.g1.xrea.com/usuihane.html)
――上記記事のコメントに「死んでいなくなった羽の主が何を体験し何を求め何を得たのか、この飛翔の残骸からは分かりませんが、たしかに私の手のひらの上にあるこのものは、写真の制作を通して私自身の中にある『死』だけでなく、『命』というものを、夢想させてくれたのです」とあります。今回の作品、「青い花」にも命の輝きが見て取れます。
〈西村〉 ありがとうございます。「青い花」のシリーズは、2007年から続いている私のライフワークのひとつです。意外かもしれませんが、モチーフにしている花々は、ほとんどが枯れて落ちたり、枯れかかっていたものたちです。その存在の中に私が感じた、美しさや輝きを、皆様に伝えることができたら嬉しいです。
――話を伺っていると、私自身とかなりクロスオーバーする部分があるのですが、私が芸術的センスを磨けなかったのは、世間と折り合いをつけてしまったからのような気がしてきました(笑)。芸術家のしなやかで繊細な心は、世間と折り合わないからこそ、輝き続けるのではないかと思いました。ところで、みなさん写真をどうしても上手く撮ろうと思いがちで、逆に新鮮さが無くなったり、失敗したりして嫌になるのではないかと思います。写真撮影を楽しむコツ、といいますか「西村流写真術」があったら教えてください。
〈西村〉 私自身は、写真術というわけではありませんが、上手に撮ろうとか作ろうとかせずに、撮りたいと思ったり好きだと感じたりした目の前のものに、素直に向き合う様にしています。ある程度しっかりとした写真的な基礎技術を身につけておく必要はあるかもしれませんが、夢中になってしまった結果、その時どんなにひどいと思われる様な写真になったとしても、それも全部自分の写真なので、失敗はないと思います。逆にそんな中にこそ、面白い写真を発見することが結構ありますので。
――素直に向き合うというのは、簡単そうで一番難しいことかもしれません。やはりそれを続けていられるのが、芸術家なのかなと思います。最後に作品をご覧いただいた方へメッセージをお願いします。
〈西村〉 今回の展覧会には、ここ2年ほどの間に撮影した「青い花」シリーズの未発表の新作、16種類、23枚を展示しています。ギャラリーとは違い、たまたま案内されてお座りになった席の周囲にある作品しか見て頂くことができないかもしれませんが、今日そこで出会った作品と目が合い、もしそれが何かを語りかけてくるようでしたら、どうぞゆっくりと対話をお楽しみください。タイミングよく店内が空いていたら、ぜひ他の作品たちにも会いに行ってあげてください。壁面に展示してある額装作品の他にも、アクリルブロックにしたものや、作品集も置いてありますので、どうぞお見逃しなく。この度は365cafeでの「青い花」展にお越しくださり、どうもありがとうございました。
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